根知谷の日々 -Blog-

30年ひと昔

 私が根知谷へやって来たのは昭和62年1月(1987年)ですので、もう37年経ちました。あの頃は根知谷に保育園から小学校、中学校までありました。人口は2400人くらいだったと記憶しています。酒蔵のある根小屋集落は根知谷の入口に位置し、国道148号線とJR大糸線が通っています。

 東京での会社勤めから故郷に戻り、渡辺酒造店へ入社した頃は今とは全く違って、伝統的な造り酒屋の趣がありました。杜氏さん、蔵人さんが5人泊まり込みで午前5時から午後5時まで仕事をして、年末年始以外は日曜日も休まずに酒造りを続けていて、随分違う労働環境の中へ入りました。

 入社から3年程は下働きであらゆる業務を経験しました。休憩時間のお茶出しやトイレ掃除もこなしながら、親の歳ほどの先輩方の仕事ぶりを見よう見まねで習得していきました。同時に酒造理論や酒税法など座学も同時に進め、新潟県醸造試験場の先生方にお世話になって、新潟清酒学校5期生として3年間の課程を修了し、日本酒造組合中央会の通信教育も基礎課程から応用課程まで異例の7年間お世話になりました。

 25歳での入蔵は、昔で言えば「遅いなあ」と言われ、「相当がんばれ」とも言われました。何やかやで30歳になった頃には、酒造観が少しずつ出来てきて、こうすればもっと良くなるんじゃないか、なんて思うことが多くなってきました。

 そんなある時、当時の麹屋さんとの間でトラブルが発生。双方の意見の違いが決定的となって、2月10日過ぎに仕事をやめて家に帰ってしましました。酒造期の途中で麹屋が離脱する事態となって、社長も杜氏も困惑しましたが、そこから私の麹屋としてのキャリアが始まりました。

 雑用係から始まり、麹屋助手から麹屋になり、更に釜屋として蒸し米の改良に取り組み、酒母、もろみ、製品びん詰めまでを統括する立場になると、もう毎日がジェットコースターに乗っている感じで、目まぐるしく展開していく局面を体力勝負で打開していきました。

 若かったですね。30代は無敵でした。相手をなぎ倒す勢いがありました。若気の至りで間違いも多かったのはもちろんですが、今にして思えば「よくあんなことをやれたものだ」と自分でも思います。その発端を作ってくれたのが麹屋のHさんの最後の言葉でした。「やれるもんなら、やってみろ」2024.02.07YW